富士に頼みごと

北斎の絵には北斗七星を意味する7つ揃いのモチーフが描かれることがありますが、それはなぜかというと彼が熱心な北辰信者であるからです。

北辰信仰の対象は北極星や北斗七星を神格化した北辰菩薩です。※北辰信仰は妙見信仰とも呼ばれます。

富嶽百景の『田面(たのも)の不二』を観てみましょう。

水が張った田の面に、さかさ富士が映っており2羽の雁が飛び立っています。その部分だ見ていると雁の背景が空に見えてきませんか?



逆さに見える富士の稜線が丸い山の端に見えてきました。

しかし、そうなると画面右半分の世界とは矛盾するので、やっぱり2羽の雁の背景は富士山が映った水田なのだとなります。

図と地の関係が交互に逆転して見えるルビンの壺のような絵です。このように不可思議で不安定な構成がこの絵をより魅力的にしているようです。

それでは北斗七星の7つ星に代わるモチーフを探しましょう。

すぐに目に入るのは飛び立つ2羽の雁ですが、右下にもいまから飛び立つ様子の雁が5羽います。遠くにも小さく5羽が見えます。

4羽の頭をつなぐとヒシャクの形になっており北斗七星を思い出させます。雁が飛び立ったら7羽の並びはきれいな北斗七星になるかもしれません。

題名に含まれる「田面(たのも)」とモチーフの「雁」(かり)は、和歌の慣用句であった「田面の雁(たのむのかり)」を意識しています。「たのむの雁」が使われている和歌をご紹介しましょう。

『とばずがたり』では後深草院が妻として迎え入れる女の父親に「この春よりは、たのむの雁もわが方にぞ」と耳打ちしますが、これは「この春からは私が娘の婿となるので、そのつもりでこちらへ寄こしてください」という意味です。

『伊勢物語』では武蔵の国に住む母親が娘の婿候補にと在原業平あてに歌を詠みます。

「みよしののたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」

(三芳野の田の面におりている雁のように、わたしの娘も、一途にあなたに慕いよるといって鳴いております)

これに対する業平の返歌です。

「わが方によるとなくなるみよしののたのむの雁をいつか忘れむ」

(私のほうに慕いよるといって鳴いている三芳野の田の面の雁をいつ忘れることなど忘れるでしょうか)

「たのむの雁」には「田の面」に「頼む」の意がこめられています。この絵は田面に富士を描いて「富士にたのむ」という祈りの吉凶図にしていると考えられます。

この絵を反転させたような絵が富嶽三十六景にあります。『相州梅澤左(そうしゅううめざわのひだり)』です。

『田面の不二』を左右反転させて見ると同じような配置の鶴が7羽いることがわかりますが、こちらも北斎の北辰信仰と重ねて見ることができます。

別の味方をすると7という数字は縁起がいいものとされてきましたし、富士、鶴はめでたい画題です。吉凶図として描かれているとみてもいいでしょう。

幾重にもはりめぐらされた仕掛けの妙が心にくいです。

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