葛飾北斎『東海道五十三次之内 大磯』
松永です。
旅人が見あげる石塔には
「とら子石」の彫りがあります。
読みは「とらがいし」で
正しくは「虎子石」とかきます。
神奈川県大磯町の延台寺に伝わる
周囲86cm、重さ130kgの石です。
北斎が描いた「とら子石」とは
ずいぶんちがいます。
もう1枚、北斎の「大磯」をみましょう。
この「とらが石」は延台寺のものと
ほぼ同じ大きさにみえます。
人夫が石を持ちあげようと
していますね。
なんとか成功しているようです。
どんなに怪力でもびくともしないが
美男子なら軽々と持ちがるという
いいつたえがあります。
そう思うと画中の人夫が
二枚目にみえてきました。
この石の云われをお話しましょう。
『曽我物語』をご存知でしょうか。
口づてに伝えられてきた曽我兄弟
による仇討ちの物語りです。
あらすじはこうです。
1193年、源頼朝の富士の巻狩りのときのこと。
曽我祐成(すけなり)と時政(ときまさ)兄弟が父の仇である工藤祐経(すけつね)を討ちました。
そのまえに工藤祐経は異変に気づき
曽我兄弟に刺客を差しむけていました。
祐成めがけて放った刺客の矢も
切りつけた太刀も歯がたちません。
よく見たらそれは大きな石で
おどろいた刺客は逃げ帰りました。
その石は後に「虎子石」と
呼ばれることになります。
虎子石の名は祐成の恋人であった
虎御前(とらごぜん)にちなみます。
歌川国芳『東海道五十三次之内大磯とら』
生まれた虎が成長するにつれて
石も大きくなったことから「虎子石」
と名づけられたそうです。
広重・国貞の合作である
『双筆五十三次之内大磯』には
祐成と虎御前が描かれています。
祐成によりそう虎御前の袖が祐成
と重なり2人で1つであることを
ほのめかしています。
祐成は中空を見つめ虎御前と
別れるさだめを受け入れようと
しているように見えませんか。
はたして仇討ちは成しとげられますが
祐成は10人切りのあと討たれ、時政は
斬首刑にて果てました。
楊洲周延(ようしゅう かのぶ)作
『大磯の虎』には泣きくずれる虎御前
が描かれています。
虎御前は出家し2人の供養を片時も
忘れることなくその生涯を終えました。
曽我兄弟の仇討ちは武士社会における
仇討の模範とされました。
この物語は初代市川團十郎が初演し
いらい正月の演目になっています。
『寿曽我対面』
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