松永です。
『ラ・ムスメ』は1888年に
ゴッホが描いた肖像画です。
モデルはアルルの少女ですが
日本の少女をイメージして描いており
手紙の中で「ムスメ」と呼んだことから
『ラ・ムスメ』と題されています。
仏和大辞典には
「mousmé / mousmée」が入っており
日本語だとして、こう書いてあります。
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日本娘
(20世紀初頭) 女房;情婦;女友達
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当時のフランスでも、けっこう
知られた言葉だったようです。
ゴッホはピエール・ロティの小説
『お菊さん』を読んで「ムスメ」の
言葉を知りました。
絵の中の「ムスメ」は左手に夾竹桃
(きょうちくとう)の小枝を
もっています。
小説『お菊さん』の中には娘と
夾竹桃が一緒に記述されているところ
があるからでしょう。
ポーズはロティの挿絵に描かれた
女性に影響を受けたようです。
また、女性の手の周囲には花があり
ムスメも同じところに夾竹桃があります。
ピエールは海軍将校として日本に
滞在していたことがあり、そのときの
体験をもとに『お菊さん』を書きました。
その中の一節には、こうあります。
「ムスメというのは若い少女もしくは
非常に若い女を意味する言葉である。
それはニッポンの言葉の中でも一番
きれいな言葉の1つである」
ピエールが言うには「ムスメ」には
次の2つのフランス語、
・Mouse(口をとがらす)
・Furimousse(かわいい顔)
が含まれているのだそうです。
だからでしょうか、ゴッホの「ムスメ」
は唇をとがらせ東洋風の顔つきです。
ちょっと不機嫌そうにも見えますね。
同じ年に『夾竹桃と本のある静物』
も制作しました。
エミール・ゾラの小説『生きる歓び』と
花びんに挿した夾竹桃の花を
明るく描いています。
夾竹桃は彼にとって特別な意味が
あったようです。
南フランス、アルルの「黄色い家」に
住みはじめたころに送った弟テオへの
手紙にはこう書いています。
「ぼくはまた、門の前に樽植えにして
夾竹桃を2本植えようと思っている」
《ゴッホ『黄色い家』1888年》
夾竹桃はオランダやパリ近郊では
あまり見られず南フランスには広く
分布しています。
しかし、このモチーフで描いたのは
アルル時代の1年3ヶ月に限られます。
ゴッホは夢の国「日本」に対する
あこがれを夾竹桃に重ね合わせて
絵を描きました。
ところが「黄色い家」で思い描いた
画家仲間との共同生活は、ゴーギャン
との決裂によって終わります。
その後たびかさなる発作に
苦しみながらも傑作を描きつづけ
1年半後に亡くなります。
燃え尽きたと言っていいでしょう。
ゴッホの代名詞「炎の画家」の
エネルギッシュでポジティブなイメージ
とは裏はらに、彼の精神は深い闇
とともにありました。
巨匠として歴史に名を残すことと
引きかえに、芸術に身をささげ
自らを焼き尽くしたといえる
のかもしれません。
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