父親の3倍でかい娘

どれぐらい遠くまで行けば「旅行したなー」と感じますか?


私の場合は、中2日ゆっくりと遊べる3泊4日がベストです。


江戸時代の民衆も旅行が好きでしたが、なかなか遠くには行けませんでした。その欲求を満足させたのが名所巡りの浮世絵です。


北斎の富嶽三十六景もそのジャンルの風景画シリーズでした。その中の1枚『相州仲原(そうしゅうなかはら)』は現在の神奈川県平塚市中原から富士山を望む図になります。


今回は、この中に北斗七星を探してみましょう。熱心な北辰信者であった北斎は、しばしば画中に北斗七星を意図してモチーフを並べました。主なモチーフは菅笠です。笠を星に見立てると北斗七星がうかびあがります。


一番はっきりしているのは、諸国名橋奇覧『三河の八つ橋の古図』です。






わたしは、これを期に北斎の絵に北斗七星を探すようになったのですが、7をキーワードにするとけっこう見つかるのでおもしろいです。


この図は登場人物が7人なのでピンときました。つないでみると北斗七星らしき形が浮かびあがります。(私の見たてであり定説ではありませんのであしからず)



さて、この地は大山詣り(おおやままいり)に通じる街道でたくさんの往来がありましたが、図のようにひなびた土地でした。富士山の手前に見える小さい山が大山です。


登場人物を見てみましょう。


右端には荷をせおった行商人、せなかの風呂敷には版元西村屋の紋が見えます。このように浮世絵はスポンサーの宣伝の場としても使われていました。その左には大山詣りと思われる錫杖をもつ男、そして天秤棒をかついだ行商人とつづきます。



赤んぼうをおぶった農婦が弁当をいれたタライを頭に、ヤカンをぶらさげたクワを手にして裸足で歩いています。なんとたくましい姿でしょうか。



川に入っている農夫はシジミを獲っており、人々の姿からも夏場のようです。大山ヘ参詣が許されたのは旧暦6月27日から7月17日の3週間ですから、今でいうと8月にあたります。



富士山登山は山頂の雪がなくなる7月上旬から9月上旬にかけて登山道が開かれます。でも、絵では富士山が雪をかぶっていますから不思議だと思います。


手前の板橋を渡る2人は六十六部の親子です。父親は厨子(ずし)を背おい、子どもは鉦(かね)をたたいています。六十六部とは物乞いをしながら六十六の霊場をめぐる巡礼者のことです。



巡礼の背景にはどんなドラマがあるのでしょうか。このような場面を見るたびに映画『砂の器』を思いだします。


手前の板橋わきに道標が立っていますが、シルエットから不動明王が彫られていると思われます。不動明王は大山寺の本尊ですので大山詣りがテーマの1つであることを示しています。巡礼の親子も訪れるのかもしれません。



大山は標高1252mで麓から徒歩で片道3時間半かかります。ロープウェイを使うと50分です。


大山は古くから霊山として信仰をあつめていました。江戸時代には人口100万人にたいし毎年20万人が参詣していたそうです。5人に1人が大山詣りをしたのですからものすごいブームだったことがわかります。


当時は伊勢詣りをはじめ寺社参拝がブームになっていました。そのなかで江戸から2,3日の距離にある大山は気軽に行けて旅行気分も味わえる行楽でもありました。


【北斎『諸国瀧廻り』相州大山ろうべんの瀧】

参拝後は江ノ島などで行楽するのがスタンダーどなコースでした。参拝2割・行楽8割だったそうで、その様子は古典落語「大山詣り」にも表されています。


大山と富士山は父娘の関係にあり、古来より「大山に登らば富士に登れ、富士に登らば大山に登れ」と言われました。江戸時代には両方を参拝する「両詣り」をするのがよいとされました。


父親の大山は1,252m、娘の富士山は3,776mですから3倍も違います。娘が父親の3倍も背が高いとはちょっと納得いかないことではありますが、双方の御祭神の関係からそうなっているようです。(大山:オオヤマツミノミコト、富士山:コノハナサクヤビメ)


大山は今でも参拝する人でにぎわっており、平成28年には「大山詣り」は日本遺産に認定されています。


富嶽三十六景の特徴の1つに富士山の相似形があります。この絵の中にある相似形はつぎの4つです。



・風呂敷包みの永寿堂の三つ巴の上に山型

・スズメおどしの鳴子が下がったヒモが山型

・いちばん手前にはワラ屋根の三角

・石碑を頂点とする地面部分の三角


遠方の富士山と近景を結びつける効果によって画面に統一感を与えるだけでなく、民衆のくらしと富士山がふかく関連していることを表現しているのです。


見るポイントを北斗七星にするつもりでしたが、見どころが多く盛りだくさんになってしまいました。さすが北斎。

コメント