「越後屋、お前も悪よのう」
「いえいえ、お代官様ほどでは」
この、悪代官と越後屋のやりとり
時代劇ではお決まりのシーンです。
でも、なぜ越後屋なのでしょうか?
今日はその越後屋について。
三越デパートのスタートは
江戸初期の1673年にまで
さかのぼります。
伊勢の商人、三井高利が江戸本町
(現在の日本銀行辺り)に、呉服店
「越後屋」を開きます。
間口3mに満たない小さな店でした。
三越百貨店はここから
始まったわけです。
10年後の1683年、駿河町に
移転したころは間口13m、奥行30m
の大店舗になっていました。
ちなみに駿河町はこの通りから
富士山が真正面に見えたことから
付けられていた名前です。
今は高層ビルがあるために
見えません。
店は更に大きくなり、駿河町の
大通りをはさんで左の江戸本店が
62m、向かいの江戸向店が39m
になりました。
この繁盛ぶりを一目見ようと
人々が押し寄せる観光名所でも
あったようです。
歌川広重
名所江戸百景『する賀てふ』
両側にある店の暖簾には三越の
トレードマーク「丸に井桁三」が
見えます。
それがずっと遠くまで続きますが
この通りぜんぶが三井越後屋
だったのです。
通りには馬に乗った侍や
買いものに来た大名屋敷の女中
魚河岸帰りの棒手振りなど、いろんな
人物が描かれています。
江戸商業のシンボル、それが
三井越後屋でした。
現在も同じ場所で日本橋室町の
三越本店、両替店は三井住友銀行
として営業しています。
日本橋の本通りから、三越本店と
三井住友銀行の間を常盤橋の方へ
むかう道路がその位置にあたります。
広重の絵とおなじ構図ですね。
さて、店の中に入ってみましょう。
『浮絵駿河町呉服屋図(うきえするがちょうごふくず)』
1768年 歌川豊春
透視図法で構成された
奥行きのある絵です。
当時、西洋画法を取り入れた
このような絵は斬新であり
人気がありました。
正面の両側の柱には
「現金かけねなし」とありますが
これは「掛売りしませんよ、現金払い
ですよ」という意味です。
今では現金払いが当たり前ですが
当時は掛売りで半期ごとに精算する
のが常識でした。
それでは人件費がかさみますし
貸し倒れのリスクもあったため
現金払いを考案し徹底させたのです。
その他にも主流だった訪問販売から
店頭販売に切り替え、反売りから
必要な分だけの「切り売り」にする
など、現在行われている方法に
変えました。
仕立て専門の職人も待機しており
急ぎの客には半日ほどで用意する
こともできました。
その他にも雨の日には傘を貸しだし
町中で宣伝ビラを配り、売れ残りや
傷ものを特価販売しました。
絵に戻りましょう。
100畳は超えているような
広大な畳敷きの店内です。
天井には販売担当が書かれた
垂れ幕や見本の着物がたくさん
吊るされています。
その下では店員と客の商談の
活気ある様子が描かれ新商法で繁盛
した三井越後屋の様子がいきいきと
描かれています。
天井の垂れ幕の中には「小判六十目」
の為替相場が掲示されていますが
呉服販売のほかにも両替商を
営んでいたことがわかります。
ビジネスモデルの連続改革により
三井越後屋は巨大な起業体へと
変貌を遂げやがては日本3大財閥の
1つ、三井財閥になりました。
「越後屋お前も悪よのう」
の台詞は三井越後屋の知名度の高さ
を物語っているのでしょう。
最後に北斎の絵を観ましょう。
江都駿河町三井見世略図
(こうとするがちょうみついみせりゃくず)
やはり看板には「丸に井桁三」の
マークが見えますね。
画面中央奥には雪をかぶった
富士と屋根が相似形になっています。
北斎が繰り返し使った構成です。
駿河町の絵は通りの左右にならんだ
三井越後屋を描くのが普通でした。
北斎はそれをせずに2階から上
だけを描く斬新な構成で描きました。
いかにも北斎らしい絵です。
北斎が富嶽三十六景を描いたのは
70歳を過ぎてからです。
三井高利が江戸の一角に
小さな呉服店を出したのは
52歳でした。
何かを始めるのに年齢は
関係ないということですね。
高齢化社会に向けて
学ぶところ大です。
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